川村英司 2005‐2006年度 第4回レクチュア・コンサート

  (通算 第19回)

2006年6月6日(火)  18時30分より

於:Studio Virtuosi

 

Robert Schumann 作曲  „Lieder und Gesänge”  ( )

シューマンの 歌 曲

ハイネの詩による歌曲

Liederkreis 作品24番 

 

バリトン:川村  英司

ピアノ:小林  秋恵

 

 411日から512日まで日本を留守にしましたので、帰国してから、非常に慌ただしく過ごして今日となりました。28日から30日まではカッセルでドイツ連邦声楽教師連盟(BDG)の年次総会が開かれ、オッカー先生ともお会いして、充実した3日間を過ごしてきました。中々為になる話しが多く皆勤という感じで過ごしてきましたが、少々草臥れました。オッカー先生は83歳と言うご高齢にもかかわらず、お元気そのもので7歳若い僕でもついてゆく事が出来ない感じでした。朝は7時起きで7時半からゆっくり朝食、僕が5分前の時と、オッカー先生が前のときもありました。オッカー先生は朝食を一番大事にいっぱい食べられますが、僕は果物とヨーグルトだけの軽い朝食ですが、ゆっくり坐って朝食時間を楽しみました。

 家では遅寝遅起きがすっかり板についてしまっているので、ヨーロッパ生活はいつも自己改善の早寝早起きとなります。帰国してもしばらくは早寝早起きが続くのですが、段々に遅寝遅起きへと移行してしまいます。でも今回は910時までの遅起きは23日で67時には目がさめておきますので、少しばかり今までとは勝手が違うようです。いつ化けの皮が剥がれて遅寝遅起きになるのでしょう。いつまでも持続したいと願うのですが、時間の問題で、間もなく「三文の得」すら得る事が出来なくなるのです。

 

 世間では今年はMozart生誕250年の年と騒いでおりますが、確かにMozartの音楽は心を癒すいろいろな要素を持っていますし、人間だけでなく、日本酒やワインなどの発酵にも影響するとのことで、各種の利用法も考えられていますので大騒ぎになる事は致し方のない事でしょう。

 

 今年になってモーツアルトは非常に収入が良かったと言う資料が出てきたそうです。貴族の収入に近く高額所得者の上位に入っていたそうです。大変に豊かなはずなのに、博打にはまって、ものすごい借財をつくり、フリーメーソンの仲間の貴族からすごい金額を肩代わりしてもらっていたそうですが、懲りずに博打にのめりこんで、ものすごい収入にもかかわらず、常にピーピーの状態だったそうです。にもかかわらず彼の音楽は天真爛漫と言うか、陰りが無いと言うか、本当に聴衆を楽しませ、癒してくれるのです。彼こそが本当の天才と言うのでしょう。全く不思議な存在です。

 

作曲家シューマンと詩人ハイネも今年は共に没後150年を迎える記念の年なのですが、その割に影に追いやられているように感じます。デュッセルドルフのハイネ研究所では色々な催しをしているようでパンフレットは送られてきますが、その他の土地では如何なのでしょう。

歌曲作曲家としてのシューマンはハイネの詩で幾多の名曲を作曲していますし、数多くの作曲家から歌曲のための詩として、多くの詩を選ばれた詩人としてのハイネは音楽史上特筆されてしかるべきと思います。

「汝は花の如く」の詩だけでも数え切れないほど多数の作曲家が作曲しています。というのはデュッセルドルフのハイネ研究所が所有している楽譜を見せてもらいましたが、全く僕の知らない作曲家の名前まで膨大な数でした。

 

シューマンは結構多くの彼の詩に作曲していますが、どちらかと言うと彼の詩の特徴と言われるアイロニーをどれだけ表現したのでしょうか、本来の詩の単語を変える事でアイロニーを取り去って一部の歌曲は作曲をしたりしているようですが。

大雑把な言い方で「シューベルトは記憶違いで」、「シューマンは意図的に、」詩を変えたと言われていますが、必ずしも説得力があるようには思えません。微妙な詩の持つアイロニーやニューアンスをどれだけ僕が感じ取っているのかが問題なのです。

今回だけに限らず、毎回なのですが、詩を読めば読むほど、考えれば考えるほど、内容が深くなり、分からなくなるのです。若い頃にもっと文学の勉強をしておけば良かったと思っても手遅れですが、今更ながら後悔しています。もっと微妙な声が楽に出る時に内容のある歌を歌いたかったと思うのです。

このハイネの微妙なアイロニーの問題は日本人にはとても難しいのではないでしょうか。僕が考えるアイロニーとはあまりにも単純な考えなのでしょう。誰かお教えくださると嬉しいです。

 

今回はシューマンの歌の年1840年の最初の頃に作曲した作品24番のハイネの詩による歌曲集を取り上げます。

この曲の自筆楽譜はベルリーンの国立図書館にあり、コピーをもらった知人が見せてくれたので、少し比較してみました。印刷された楽譜としては、初版、全集(Clara Schumann監修、実はブラームスとマンディチェフスキーで編集してClaraは名前だけと言う人もいます。)、ペーター版、ブライトコップ版(Clara Schumann監修のVolksausgabe)が手にいれる事のできる楽譜ですが、それぞれに問題点が見られますので、少し述べたいと思います。

フーゴー・ヴォルフのように、色々な出版過程の資料が現存し残っている作曲家は、調査が楽で、推測の範囲を出ない判断をしなければならぬ部分が少なくて助かりますが、シューマンやシューベルトは非常に少ないので困ります。それゆえに出版楽譜によっては編集者の見解の違いと思われる差異が出てくるのは仕方のないことでしょう。しかし明らかなミスプリントは訂正しなければならないのですが、一度印刷したら直さない出版社が結構あるようです。同じ出版社の楽譜でも版、刷はそのつど印刷して欲しいと思います。

 

[おまけに日本版は欧米のどこかの版を盲目的にコピーするだけで、解説にはもっともらしい事を書いていても、楽譜は全く解説とは違う版を印刷したりしているのです。何故そこまで無知に成れるのか分かりませんが、不思議な現象ですし、独自のミスプリントも出てくるのですから困ったものです。]

 

参考資料がヴォルフのように多くあったとしても、勿論全てではありませんので見解の相違は出てきますが、作曲家の考え方の変遷をかなり知ることができるのです。自筆楽譜、初版のための清書楽譜、初版のための校正刷り、初版、それを直した再版などなどいろいろな資料が残っていればいるほど正しい楽譜が印刷されるわけです。それでもヴォルフ自身の校正の際の見落としであろうと思われる部分も出てきて考えさせられるのです。

シューマンの資料では、自筆楽譜から出版楽譜までの間にどのような経緯があったかを知ることは、非常に困難であると思います。ブラームスのHandexemplarはヴィーンの楽友協会の図書館に、プフィッツナーのHandexemplarはオーストリア国立図書館に所蔵されていますが、シューマンについてはZwickauRobert-Schumann-Hausにあります。それをそのまま歌曲については全部コピーさせてもらって僕は持っていますので、作品39番のリーダークライスは初版と再版(新版と言います)を持っていますが、シューマンがどれだけ手を加えているのか、残念ながらまだ正確には検証していません。僕が歌っている曲については初版と全集を比較しているので見ていますが、今までにシューマンが書き加えた部分はまだ見つけたことがありません。全体を早く比較しなければならないのですが中々時間がありません。

 

個々の曲について述べます。

この歌曲集は1840年に作曲されて、同年ブライトコップ社より出版されました。

「歌の年」の最初に出版されたこの歌の詩をシューマンはどのような気持ちで選び、作曲したのでしょうか。この詩は1817 - 1821に書かれた „Junge Leiden“ „Lieder“ の全9個の詩をハイネが出版した順に作曲しています。

ハイネは „Junge Leiden“ 1817 – 1821に書きましたが、最初のほうの „Lieder“ はいつ書かれたのか僕の知識でははっきりしていませんが、詩の内容から考えて従姉妹のアマーリエ(姉)とテレーゼ(妹)の二人がモデルになったと言われています。恋する男の色々な不安な心理が色々な形で表現されています。

 

1.      Morgens steh’ ich auf und frage.

 最初にこの歌があるこの詩集をそもそもシューマンはどのような気持ちで選んだのでしょうか?クララとの結婚をクララの父Friedrich Wieckに猛烈な反対をされ、裁判でいろいろな人格的なことを非難されて、彼の不安は頂点に達していたのではないでしょうか?仕事を探しに行ったヴィーンで当時流行していた性病に感染した彼のそのことを父親はすでに知っていたらしい兆候はあるそうですので、直接には暴露をしませんでしたが、ローベルトとしてはいつその事を暴露されるかと不安を持っても仕方はなかったでしょう。結果として父Wieckはそのことは伏せて裁判に負けてしまうのですが、性病を患っている男性に、特に音楽家(ピアニスト)としての才能豊かで将来を嘱望されている娘を嫁がせる気には普通の父親ならならないでしょう。裁判までしてでも反対する父親の心理は分かるような気がしますし、ローベルトの不安な気持ちも分かるような気がします。

この歌では、その不安と期待に反して訪ねてくれない彼女に対する想いが音楽に現れているようにも感じます。モーツアルトのような無邪気さ、天真爛漫さを音楽からは感じません。

 

話は飛びますが、モーツアルトの歌曲の詩の選び方にとても興味を覚えました。1991年だったと思いますが、モーツアルトの没後200年を記念して「モーツアルトの夕べ」を文化会館小ホールでいたしました。モーツアルトの歌曲で一晩歌うなど思いにもよりませんでしたが、京都モーツアルト協会に頼まれました。自分ではモーツアルトだけで一晩のプログラムを考えれなかったので「ヴェルバ先生と相談してプログラムが作れたらお引き受けします」と返事をしました。先生に相談しましたら、„Warum nicht?“と言われて、本当にあっという間に一晩のプログラムを作ってくださいました。モーツアルトの詩と音楽、特に詩の選び方にとても共感したものでした。

 

話は元に戻りますが、この曲の最後の伴奏が自筆楽譜(参考資料1と初版(参考資料2ではかなり違います。聴き比べてください!

 シューマンも所謂メリスマスラーをこの歌曲集の自筆楽譜と初版で殆んど付けていないので、その他の歌曲でも調べてみましたが、シューベルトやヴォルフ同様にメリスマスラーを付けることはしていないと思います。所謂メリスマスラーは出版社がある時には勝手につけたと思われます。

 

 

2.    Es treibt mich hin, es treibt mich her.

 シューマンはすでに自筆楽譜(参考資料3で二つの声部を書き込んでいます。殆んどの作曲家はHandexemplar(初版)(参考資料4や再版で二声部目を加えることが多いのですが、自筆楽譜から書き込まれていることは極めて珍しいと思います。

 15小節から始まるritard. 17小節のアウフタクトからa tempo に戻りますが、自筆楽譜(参考資料5には書き込まれていません。初版(参考資料618小節からで、それ以後の楽譜(全集、ペーター版(参考資料7など)は17小節のアウフタクトからです。

 1曲目で触れたメリスマスラーの件ですが、このように自筆楽譜(参考資料8も初版(参考資料9も書かれて印刷されています。

 

 

3.  Ich wanderte unter den Bäumen.

シューマンがこの一連の詩集を選んだ背景が分かるような気がします。またハイネの詩作した時代のことを詳しく調べたい気がします。レクチュア・コンサートを始めて以来、いかに今まで表面的な勉強しかしていなかったか、思い知らされているのですが、知れば知るほどに深みにはまるというのでしょうか、「井の中の蛙」であったかを反省しています。1827年に出版されたハイネの「歌の本」(Buch der Lieder)を1830何年かに友人から貰いその何年か後に「歌の年」1840年となるのです。シューマンが友人から貰った「歌の本}の表紙および献呈の辞を書いたページのコピーをハイネ研究所からいただいてあるのですが、どこに仕舞い込んだのか見つかりません。始末が良くて本当に困ります。

35小節のピアノのアルペジオが自筆楽譜(参考資料10ではありませんので、初版以降の楽譜(参考資料11と違いを聴き分けてください。

 

 

4.   Lieb´ Liebchen, leg´s Händchen auf´s herze mein !

 この詩を書いた発想の源は何なのでしょう?死の棺で間もなく(Damit ich balde) schlafen kann. 心臓が打つ脈の音が、大工が棺を作っている槌音で、やがて出来上がる。と歌っているのです。詩の捉え方でどのようにでも、違った表情の表現でも出来るのです。ただ何となく綺麗にさえ歌えるのですから、如何に我々は文学に通じ的確に表現しなければいけないのかを考えさせられます。

 

 

5.   Schöne Wiege meiner Leiden.

一連の歌曲集で表面はきれいなメロディーできれいな音楽を形作っていますが、内容はとても激しく、起伏の大きな苦悩、感情を表しています。とても難しい解釈が要求されるように思います。シューマンはどのような表現を望んだのでしょう?最後の6節の後にもう一度最初の節を繰り返して作曲しましたが、この繰り返しをどのように悲痛な気持ちで歌わなければならないか、メロディーが美しいだけに苦労します。

この曲では最後のピアノ右手の装飾音と次に続く和音にタイがあるのが自筆楽譜(参考資料12、初版、ペーター版(参考資料13で、全集(参考資料14Volksausgabeにはタイがついていないので、弾き比べてもらいます。皆さんはどちらがより良いと思われますか?

 

 

6.  Warte, warte, wilder Schiffsmann.

この詩、歌も非常に激しい歌です。ハイネがどのような失恋をして、この感情を抱いたのか?一連の詩からシューマンは何を感じて作曲したのか真実を知りたいものです。

最初に書きましたが、シューマンの「歌の年」1840年に作曲し、歌曲集の最初の作品番号として出版した意味は何だったのでしょうか?この作品に限らず、レクチュア・コンサートで話しながら歌うと言うことで勉強しなければならなかったことはとても多く、もっと早くからこのような企画をしていれば、もっと良い歌が歌えたのではなかったかと、反省しています。いろいろ考えて楽譜を調べて歌ってはいたのですが、考えてみればすごく表面的で済ませていたものだと後悔しています。

 

 

7.  Berg´ und Burgen schau´n herunter.

楽譜としての大きな違いはこの曲では存在しませんが、35小節(4番の7小節)にはrit. が自筆楽譜(参考資料15では付いていません。初版(参考資料16から付いています。1番から3番まではritardando になっています。

またハイネは再版から言葉の一部を変えていますが、シューマンは初版を基にして作曲していますので、初版の通りの言葉(単語)です。

 

 

8.  Anfangs wollt´ich fast verzagen.

最後の節のAber fragt mich nur nicht, wie? この „wie?“ をハイネは?シューマンは?どのようにして、このような場合を耐え忍んだのでしょう?耐え忍び方を教えて欲しいものです。心の叫びをどのように歌えば的確な表現できるのでしょうか?

一人でピアノの前に座りこのような悲痛な歌を、涙を流しながら、声を詰まらせて歌った経験はありますが、人前で歌うときにはそんなことは出来ません。感情移入をどの程度にするのが一番良いのか?我々の課題は多いと思います。

僕の経験として日本語の歌を歌った時でしたが、唾液がのどに詰まって声を詰まらさせたことがありました。にもかかわらず聴衆の何人かは詩の内容から感情がこみ上げて感極まり、声が詰まったと良く解釈してくれたことがありました。また僕自身センチメンタルになって、声を詰まらさせる寸前まで感情がこみ上げたことがありましたが、その寸前で感情を抑えたことがあります。我々はどこまで感情移入することが許されるのでしょうか?感情の込め過ぎも、感情過多の自己陶酔型を聴いていてぞーっとするのですが、一方赤い血が流れているのだろうかと疑いたくなるような感情のこもらない歌も聴いた記憶があります。僕としてはまだ自己陶酔のほうが、冷静な歌より好きですが、自ずと限度はあるでしょうが。年齢とともにその感情は整理されて欲しいと思います。

それゆえに若い世代の学生、歌手には少しは感情過多の歌を歌うようにと勧めています。年相応の感情整理が出来るように育ちたいし、育てたいと思うのです。

 

 

9.  Mit Myrthen und Rosen.

シューベルトをはじめ、多くの作曲家に記譜法で現代流に弾いてはその時代と音楽とは違うのではないかと、三連音符と付点音符の奏法で議論されます。この曲の28小節をピアノを自筆楽譜(参考資料17で見るとシューマンは付点音符を三連音符として考えていたと思いますし、テンポが速いので三連音符として弾く以外に方法はないと思います。この曲の場合は初版(参考資料18からずらして印刷されています。

曲の最後の部分のAdagioの次の小節に自筆楽譜(参考資料19ではritard. がありますが、初版(参考資料20以降は付いていませんが、実際にはAdagioの後にritardandoをしている歌手がほとんどであり、印刷の際の見落としではないだろうかと考えられます。

 

これで今回のコンサートは終わりますが、昨今は想像を絶する事件が頻発しています。なぜこのように直ぐ感情が切れてしまうのでしょうか?不思議で仕方ありません。どうするともっと普通に物事を考え、自己表現をすることが出来るようになるのでしょうか?自分の意思、気持ちを直に表現することは出来ないのが社会生活ですが、有り難いことに我々歌手は歌曲と言う枠を借りては、自分の普段言えないことを芸術と言う範疇内で表現し、ストレス解消もしているように思います。有り難いことです。